習慣流産4回の私がまさかの自然妊娠した話

流産が続いて希望がもてません。もう授かるのは無理じゃないかな。

私もすごく思っていました。

私の覚書も兼ねてかなり詳細に書いています。

あくまで一体験談ですが気になる方はみてみてください

この記事でわかること

・流産4回した私が自然妊娠するまでの話

・流産のあとに変わった生活3つ

・かわらなかったこと

・振り返って思うことまとめ

流産4回からの自然妊娠までの経緯

第一子出産から5年かかっての妊娠でした

1回目の流産

1歳6か月まで授乳をしていたので、生理の再開もそこからでした。

もともと生理不順だったので自然に再開するのかとても疑問に思っていたのですが、1か月で自然に来てくれてとても安心したことを覚えています。

産後1歳8か月から妊活再スタート!

まずはクロミッドでタイミング法。1人目を授かるまではなかなか育たないこともあった卵胞がすっと大きくなって感動しました。PCOSは妊娠出産をすると改善傾向になる人もいると聞いていたので期待大。

世間はコロナワクチンの接種が始まり、病院スタッフは受けていないと若干プレッシャーを感じる時代に。

職場からの勧めもあり、卵を育てている期間に2回接種をしました。

しかしそれまで順調だった卵胞発育が一気に悪くなりました。(もちろん医学的な因果関係は証明されていないし、影響はないといわれています。)

その後ものすごくゆっくり成長した卵胞に合わせてタイミング実施し、妊娠検査薬が陽性に。

1人目に3年かかっただけに、あっさり妊娠できたことに当時はわーい!と軽い気持ちで喜んでいました。

しかし、7週で心拍確認できず。8週にようやく確認できたもののとても弱く、9週で自然流産となりました。

初めての流産。診察は一人で受け、終わった後クリニックの横の公園でわんわん泣きました。そのときにみた銀杏の木の景色がわすれられず、綺麗に色づいた銀杏の木をみるとこの子はどんな風にすごしているのかと今でも考えます。

初めての流産はどんなふうになるかすごく心配でしたが、9週とはいえやはり出産。

0時くらいから陣痛のような波がきはじめ、4時くらいに出血が増えてきたためトイレにいくと大量の出血とともに赤ちゃんとおもわれるものがでてきました。

自宅を引っ越してすぐのタイミングで、自動洗浄のトイレに変わっていて、たって中を覗こうとした瞬間にながれていってしまい、取り上げてあげられなかったことに激しくおちこみました。

なんとか瞬間につかんだ胎盤のかけらのようなものだけもって病院へ。病理検査にだしてもらいました。

色々な後悔がとまらず、ふとした時に涙がながれ、1週間は仕事もお休みさせてもらいました。

2回目の流産

5回人工授精にトライしましたが、結果はふるわず。お盆休みを利用して思い切って体外受精をすることにきめました。

PCOSのため、少ない薬でも卵は大量に育ち、採卵後は卵巣過剰刺激症候群(OHSS:採卵後卵巣が腫れ、腹水などがたまること)に苦しむことに。入院までは免れましたが、しばらく息苦しい状態がつづき、浮腫みのせいで腹囲も10㎝以上アップ。

ただ受精卵は7個とることができ、これでなんとか決着がつくだろうという気持ちでした。

でもそんなにうまくいかないのも現実。3回はかすりもせず陰性。

これまでの人工授精とちがい、まぎれもなくあった1つの命を失っていく現実に、私のお腹じゃなければ育ったのではと苦しい気持ちになりました。

気持ちが一番荒れていたのもここで、夫とはこれまでほぼ喧嘩をしたことがなかったのですが、初めて大きな喧嘩をしたりもしました。

4回目で初めてhcg100超えて陽性に。インスタでほかの方のHCGの状態を調べたりと検索魔になりながらも、翌週には胎嚢も確認でき、クリニックでは産む場所を探し始めといてとも言われ、ようやく一歩進めたと思っていました。

もともと決まっていた予定があり、飛行機にのって沖縄へ。ついた翌日に少量の出血。一気に不安に駆られ、そこからずっと安静生活に。でもその3日後には出血量がどんどん増え、もう絶望的な状態に。

その夜2時くらいに1回目の流産と同じく、「あ、いまだ」と思う瞬間があり、トイレに行き、心の中で「もう出てきていいよ」と伝えると、ポロンっと何かがでてきました。

今度こそはと救い上げて、綺麗にすると、真珠のような胎嚢と胎盤と思われる組織がでてきて、涙が止まらず。

ベッドに戻ると、めずらしくぴよが起きていて、赤ちゃんがお空に帰ったことを伝えると、「赤ちゃんお空に行ったの?なんで?悲しいね」と言ってくれてますます号泣。ぴよはそんなままを見たのが初めてでびっくりしたのかそのあとなかなか寝付けず。

そしていまでもこの時に号泣していた私の姿を覚えているみたいで、今回の妊娠のぴよぴよのこともとっても心配してくれています。

3回目の流産

前回の流産から1か月ほどお休みして、次の移植へ。前回の移植前は心も荒れたりしていて生活はあまり気を付けていなかったけど、運動したり、食事を整えたりして再度臨んだ移植。

ET9日目の採血結果はHCG60ととても微妙な結果に。夫に伝えると、「まだ妊娠じゃないね。」と言われたことにかちんときてまた喧嘩。そんな私たちをみて、ぴよは「パパ悪い!妊娠してないなんていったらダメ!」と援護してくれました。パパに改めて「いついなくなるかわからないからお祝いしたい」と伝えると、パパが泣いていてびっくりしました。これまで一度も見せたことのない涙に、パパも赤ちゃんを失うことをとても怖いと思っていたことを初めてしりました。

うれしさよりも不安のほうが大きく、胎嚢が確認できても喜ぶことはできず。

クリニックからもう何度ももらった「妊娠おめでとうございます」の紙を見て複雑な気持ちになりました。ぴよの妊娠でもらった時はあんなにうれしかったのに。

そんな中祖母が亡くなり、バタバタとお葬式などですごすと、夜お腹がすごく張っていることに気づき慌てて休みました。本来は仕事の予定だけど、翌日とても体がつかれていてお休みし、1日安静に。

しかし、夕方に出血。そこからもどんどん増える出血。ぴよをお迎えにいって、「赤ちゃんまたしんどいみたい。小さい赤ちゃんがでてくるけど、抱っこできる?」と聞くと、「大人みたいにおっきいと抱っこできへんけど小さいから大丈夫やで」と言ってくれました。最後のお風呂はお腹にお湯をかけてしっかりあたためてくれました。

そして夜中1時。出てくる瞬間がなぜわかるのか本当に不思議だけど、「いよいよだな。」と思いトイレへ。

5週なので、本当に気づかないくらいポトンとすぐに出て、でもなんとなく赤ちゃんな気がしてならず救い出してあげることができました。

翌朝ぴよに赤ちゃんだよと見せると、「テレビで見た赤ちゃんと違う。」と言いながらもだっこしてくれました。

「どうしてお腹で大きくならなかったの?」と聞かれ「それはママもわからないんだ」と答えました。

4回目の流産

立て続けの流産のため半年ほどお休みしてからの6回目の体外受精。保険適用でできる最後の移植。

このときは残っていた2つの受精卵を戻しました。双子になるかも…と心配や期待もしつつの移植でした。

流産が3回連続起こっているため、今回は移植日からヘパリン注射とアスピリンの内服をしました。(これがまたつらいけど)

判定日までの尿検査はしない主義の私。今回もそわそわしながら採血結果を聞くとhcg92とまたも100超えず。

今回はもはや不安な気持ちしかなく、赤ちゃんに話しかけたりは全くできず。

どうしても自分の心を守ってしまっていました。

寝る前にぴよと一緒の時にだけ「赤ちゃんがんばれ!」と声をかけていました。

迎えた胎嚢確認の日。見えるはずの胎嚢は見えず、今回も厳しいでしょうと伝えられ、あぁやっぱりそうか。と思いました。

その日早めに帰宅し、ケーキを買ってくれていた夫。おそらく胎嚢は見えるだろうと思っていたのと、前回の流産でお祝いしたいと言っていた私の言葉を覚えてくれていたのでしょう。妊娠したことを一番うれしく思っていたのはパパだったかもしれません。本当にごめんという気持ちしかありませんでした。

職場のスケジュール的に流産するならこの日以降がいい・・・そんなことを思ってしまった自分に気づきました。

そしてその通りに出血しはじめました。今回は胎嚢などもないため生理のような出血のみ。

これをきっかけにずっと続けていた仕事をいったんお休みすることを考え始めました。

まさかの自然妊娠

体外受精を続けるなら今後は自費になるため、金銭面での不安があり仕事を続けるべきなのではととても悩みました。しかし、それ以上に夫が仕事をやめることを強く賛成してくれたので退職を決断。

ぴよも保育園から幼稚園にチェンジ。

開業届を出して保育園継続することももちろんできましたが、あえてそうしませんでした。

保育園と幼稚園の生活の違いに驚きつつ、初めて専業主婦という生活を始めました。

結果、専業主婦しんど!!(笑)朝は遅く、お迎えはとても早く、休園だらけの幼稚園。

自分だけの時間は一気にへりましたが、子供の体調不良のたびに仕事の調整をしていたストレスから解放され、心に余裕ができました。

そんな中自費で採卵からやり直しをし、トライした7回目の体外受精。

採卵後はまたOHSSに悩まされ、苦しみました。さらに前回は7個できた受精卵が、今回は3個だけ。

2年という年齢の差も感じました。

保険適用ではできなかったSEET法も実施しての、体外受精。

・・・やはりうまくいかず陰性でした。全額自費なので、採卵から移植までで総額60万円ほど消えました。

仕事もやめ、大金をかけてもダメ。もう絶望的な気持ちになりました。いつまで治療をつづけるのか。本気で考えないといけないところにきました。

そんな中、私の中で少し価値観が変わりました。

これまで何年もの間不妊治療ありきですべてのスケジュールを決め、仕事も変えていましたが、自分のやりたいことをもっとやっていこうと思うように。

仕事をやめたことで大好きな講座の活動も一気に広げることができたので、初めて不妊治療よりも優先して講座のスケジュールを調整し始めました。

本来は移植周期に向けて準備する期間でしたが、そこをあえて人工授精でトライしてみることに。しかし、薬に卵が全く反応せず、リセットしましょうとなりました。

ちょうど旅行の期間もはさんでいたので、旅行から帰ってしばらくしてからそろそろ生理を起こすために病院に行こうと思い前回の生理から1か月ちょっとあいたタイミングで受診の予約をしていました。もともとPCOSがひどく、自然に生理はなかなか来ない私。

1か月以上空くのは当たり前で、ほっておくと2か月、3か月来ないこともあるため、この時点で生理がこないことはよくあることなのですが、いつもと違って胸のはりが強く、なんとなく違和感が強い。クリニックの先生は無駄な診察をせず、いえば薬を出してくれるタイプなので、万一の妊娠があってはいけないからとスクリーニング的に全く期待せずに自宅で妊娠検査薬をすると・・・・

まさかの陽性

しかもぴよの妊娠と同じくらい一瞬で陽性になり、開いた口が塞がらない・・・

朝起きてきた夫に伝えると第一声が「なんで?」

思えば不妊治療を始めて以来、そのスケジュールに従ってしか夫婦生活もなかった私たち。体外受精になってからはなおさら必要なくなっていたのですが、まぁめずらしく自発的に?あったんですよね(笑)

ひとまずもともと予約していたので、不妊治療のクリニックに受診したのですが、「あなたに限ってそんなことあるかな・・・」とエコーも尿検査すらしてもらえず(笑)妊娠しているというのならとあまり信じてもらえないまま紹介状を持たされてその日のうちに不育症のクリニックに受診することになりました。

びっくりしたよね~

こればかりは本当に謎としか言えない・・・

流産と妊娠。その間に変わったこと3つ

仕事をやめた

もうこれは一番の変化。

仕事自体はそんなにハードではなかったものの、人間関係がややこしいことが多かった。(私との関係というより周りが)

加えて、やめる前の1年間はなにかにとりつかれたのかというくらい家族の体調不良がつづき(流産3回、コロナやインフルエンザで一家全滅、これまで全く生えてこなかった親知らずが4本とも一斉に生えてそのうち2本がはれあがり抜歯しなければいけない、ぴよの喘息発作などなど)仕事と家庭と治療の両立がきつかった・・・

仕事やめてからの1年は体調不良がほとんどなかったし、ぴよが体調をくずしてもおおらかでいられたのはとても心地よかった。毎日変わる子供のコンディションに合わせて朝決まった時間に確実に家を出ないといけない毎日もキツい・・・

ただ仕事やめたからめっちゃ楽になるかといわれるとそうでもなかった。専業主婦のほうがよっぽど自分の時間はなく、大変だと声を大にして言いたい(笑)

いまでこそこの1年があったから仕事辞める決断ができたとは思うけど、逆にいえばやはり仕事続けて産休育休とかしっかりもらいたかった・・・(夫には仕事やってたらそもそも妊娠できてないといわれる)

考え方が変わった

もともと家が裕福でなく、お金を稼ぐことや節約することに関しては人一倍厳しく育てられた私。

いろんな意味で収入がなくなったら終わりという概念が刷り込まれていて、安定した仕事を手放すという決断がなかなかできませんでした。

夫は逆に、「収入があってもやりがいがなければ生きている意味がない」といったタイプ。

助産師として病院で働いていた時はまだしも、不妊治療と並行してできるからと選んでいた職場はやりがいというよりはQOLを重視した職場であったことと、それなのに家庭と治療と仕事の両立に苦しんでいたため「そこまで無理して収入のために仕事しなくてもよくない?」と何度も言われ、決断できました。

ここは自分だけでは絶対に決断できなかったことでしたが、収入はさておき自分のやりたいことを全力でやることはものすごくやりがいがあったし楽しかった!

どんな仕事のやり方も理念や考えがあり、それぞれで尊重されるべきことだと思いますが、自分だけの考えに固執しすぎると見えなかったものがあるんだなぁと感じた1年でした。

漢方を飲み始めた(たまに鍼灸も)

もうこれは結果論ですが、2024年の2月から漢方のクリニックに通い、保険適用で結構本気の漢方出してくれるところに通い始めました。

毎日30分木の屑みたいなのを煮出して1日3回に分けて飲む魔女のような薬(笑)

これを水筒に入れて職場にもっていっていましたが、この水筒は飲まなくなってしばらくたつ今でも若干その匂いが残っていて、ぴよはこの水筒からはお水をのんでくれません。

体外受精まで来てしまうと、西洋医学で打つ手はもはやないんですよね。

それまでは不妊治療でお金かかっているのにさらにお金かけるのは・・・と思っていたのですが、ここまできたら時間との勝負。なんでもいいからよさそうなものは片っ端からやって後悔しないようにしようと決めました。

不思議なことに、左の卵胞チェックがいつも見えにくかったのですが、すっきり見えるようになったり、針をうったときだけ左の薬指だけがかゆくなったりといろいろな体の変化がありました。(これがどう影響しているのかは全く不明。医学的根拠はもちろんないけど。)

漢方は基本は当帰芍薬散ベースで飲んでいましたが、2024年2月から9月まで飲んで、2週間くらいサボっていたところにひょっこり赤ちゃんがきました。・・・サボっていた期間に妊娠したので、結局効果はわかりません(笑)

でも漢方クリニックとは別の不育症のクリニックでは必ず当帰芍薬散を飲むように言われて、妊娠5週から再開。32週の今でもずーっと飲んでいます。そのクリニックの先生いわく、当帰芍薬散はかなり効果があったのではという見解でした(お医者さんにしては珍しい意見。)

なにがいいとかではなく、私はこの流産をきっかけにいろんな変化があって

きっとそれは全部私の人生に必要なことだったのかなと思っています。

変わらなかったこと

食生活や運動

パパがバンズから作るハンバーガーが絶品

もともと食べるのも好きなので、健康的な生活は意識しつつも自由に過ごしていました。

一時的におやつや小麦を厳しく制限したりしていた時期もなくはないですが、この妊娠までの期間は割と自由に過ごしていました。

運動も意識してランニングを取り入れていた時もあったけど、今回の妊娠は特に何もせず。

たまにYouTubeでヨガをしてはいましたが、それは自分の気晴らしになる程度の10~15分を月に2回やるかどうかぐらいでした。

カフェインも1日1回程度は飲んでました~!

妊娠してからはつわりで強制的に飲食できなくなりましたが(笑)

まとめ

流産を繰り返してはじめて知ったパパの気持ちや、自分自身の生活や気持ちの変化、たくさんのことに気づくことができました。

一見ネガティブな経験だけど、きっとその裏側には大切なメッセージがあるはず。

なかなかそんな風に考えられない日々もあるし、この投稿がどんなふうに受け止められるかもわからないけど、私の一体験談の振り返りとして残そうと思います。

流産した赤ちゃんたちにはみんな名前があります。

私はお空でたくさんの子供たちに出会えることを楽しみにしています。

ひとまずぴよぴよが無事に生まれてくれますように。

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